1764年4月13日にトゥールにて出生する。青年時代の彼は画家になるよう仕向けられ、己の感性を完璧な物にするためにイタリア中を渡り歩くまでした。しかし彼の軍事を嗜好する思いは抑えがたく、従って彼は革命が勃発すると志願兵部隊に入隊し、ライン方面のフランス軍と合流した。
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革命戦争期の
サン=シール |
軍人となった彼の昇進は急速と呼ぶに相応しく、1795年には師団指揮官になっていた。彼はピシュグリュ、モロー、マッセナ麾下で従軍し、そのいずれの司令官からも戦術面だけなく、人格面においても高く評価された。しかしボナパルトからは決して厚遇を得られなかった。他の多くの将軍達のように、配下の軍人らをナポレオンの帝政に靡かせるような真似を彼は決してしないばかりか、宮廷に進んで姿を現そうとすらしなかった。事実、彼は日陰者であり、時勢の勝ち組たちの輪の中に入らなかったし、追従することにも何の価値も見出さなかった。それゆえ彼が得た栄典は殆ど無かったことは容易に想像できる。レジオンドヌール勲章が授与され、胸甲騎兵指揮官に任じられたものの、最も有能な軍人の一人でありながら、長いこと元帥に任命されないままだった。スペインで敵拠点を幾度も陥落させたことへの褒賞として、その栄誉を手にするかと思われたが、彼はすぐさまオージュローと取って代わられ、2年もの間、皇帝の前から放逐される処分を受けた。ナポレオンの治世の間、彼は冷遇されていた。しかし、その慰めとして、彼の同輩の元帥らが行く先々で現地住民の憎悪の的として記憶を留めたのと対象的に、彼には最上級の尊敬の念が向けられた。とりわけスペインを筆頭とするあらゆる場所で、彼は立派かつ高潔だとの印象を残した。真っ当な戦闘行為が備える道義性に対し、主君の意のままになって背くのを唾棄する人物、彼はそう見られていた。
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ロシア遠征の最終局面で、彼はようやく帝国元帥となり、重傷を負ったウディノの軍団を率いた。彼も同様に負傷したものの、ドレスデンの戦いには参戦した。ナポレオンがライプツィヒから撤退すると、彼はドレスデンの街に1万6,000兵とともに置き去りにされ、連合国の大軍による包囲が長きに渡ったため、降伏を余儀なくされた。その後第一次王政復古が為されると、彼はフランスに帰国した。ルイ18世は彼を良く遇し、貴族院入りさせた。彼は1815年3月の政変には関与せず、百日天下の間は田舎に引きこもっていた。国王が再び戻ってくると、彼は聖ルイ勲章を授けられ、陸軍大臣に任じられた。この重職に置かれた彼は、前任のクラルクがしでかした失策を正し、大いに成功を収めた。1816年、彼は同僚たちとの不一致を理由に職を辞したが、すぐに国王によって呼び戻された。1819年、選挙法を改正しようとする内閣の動きに反対して、再度彼は辞職した。以降そのまま引退生活を送っている。
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