2017年11月1日水曜日

1-19-a ジョゼフ・フーシェ (5)


フーシェ
よく考えてみれば当然だが、フーシェは危険を感じた。逮捕される不安にかられた彼はイタリアに逃亡し、そこからアメリカへ渡ろうとした。船に乗り込んだものの、ひどい船酔いに罹ったので、彼は「忌々しい自然の猛威」にさらされ続けるよりも、下船して最悪の事態に見舞われる方を選んだ。皇帝の妹エリザの仲介によって、閣僚を務めていた時期の不正行為全てを免責する証明書を受け取る代わりに争いの根源となった文書の引渡しを条件に、フーシェは帰還許可を得た。

ロシア遠征の悲惨な終幕の後、フーシェは皇帝から呼び出された。フーシェの謀略の才能を知る皇帝は、運勢が下り坂になると一層彼に恐怖を抱いた。フーシェは主君の命令によりイリュリア総督として出立するが、オーストリア軍の侵攻によって任地を追い出される。フランスに戻る途上、フランスとオーストリアのいずれに付くべきか揺れているミュラに喝を入れる目的でナポリに赴くよう命じられた。しかし実際のところ、危険な陰謀渦巻くフランスの首都からフーシェをできる限り長いこと遠ざけておくのが本当の目的だった。彼はボナパルトが退位するまでパリに足を踏み入れなかった。あるいは、新しい国王ルイ18世が王殺しさえも受け入れてくれると確信を持つまで待機していたのかもしれない。

ルイ16世の死に関与した過去についてフーシェは目に見えるように切実に悔い改め、王家の為に熱意を持って忠実に仕えると誓いを立てたので、彼はフェリエールの領地にただ隠居するだけで済んだ。だがこれだけは満足しなかった。彼は権力を渇望していたのだ。政権入りの望みをかけて、彼はエルバ島のナポレオンに手紙を書いて亡命を勧めた。引き続き強力な支持勢力と密通できる距離にいるナポレオンを遥か彼方へ遠ざけるのがその目的だった。フーシェは元皇帝が体面を保って在住できる唯一の国であり、またフランスの国益に合致するとして、アメリカ行きを勧めた。彼は念入りにも国王の弟あてにその手紙の複製を送付した。そうしないと彼の燃え盛る真新しい忠誠心も無駄になるのだ。うまい企みだった。策謀の表向きのターゲットであるナポレオンその人の野望を煽り立てるだろうし、その一方でナポレオンの北米追放を主張することで、ブルボン朝からも歓迎されると目論んだのだ。しかし、これらは功をなさなかった。彼の能力は一目置かれたものの、人となりは呪詛の対象になるだけだった。

ナポレオン上陸(おそらくフーシェも幾ばくかそれに貢献しただろう)の報がもたらされた際、当局はフーシェを捉え、リールまで護送して人質にしようと試みた。彼はその危機を回避する。逮捕への異議申し立てを理由として、執務室の扉の外に憲兵を置き去りにしたまま、急いで庭へ降りると、梯子を引っ張り上げて高い壁を越え、棟続きにあるオルタンスの家の庭に着地した。かくしてフーシェはボナパルティストのど真ん中に放り込まれたのである。極めて不測の出来事によるものだが、これによって彼は最も熱心なボナパルティストの頭目の一人だと認識されるようになった。

百日天下では、フーシェはかつてのように警察の長として手腕を振るった。この時の彼は3重に背信行為を働いていた。人目につかないところで、皇帝ボナパルトではなく、共和国の統率者としての彼を期待する革命主義者らの機嫌をとる一方で、彼はボナパルト政権をどう打倒すべきかについてメッテルニヒおよびタレーランと連絡を取り合った。また他方で亡命先のヘントいるルイ18世の閣僚と通じ、ブルボンが二度目の復位を果たした場合に向けて、国王からの好意を確保しようとしていた。さらに彼はナポレオンの軍事作戦の機密情報をウェリントン公爵に提供しようとした。確かに彼は戦役全体の確実な作戦内容を公爵に約束していたが、彼の言うところによれば、良心が祖国を裏切るのを阻んだと言う。彼は極秘にその作戦内容をある夫人に持たせて送ったが、戦役の動向に決着がつく前にその手紙が対象人物に辿りつかないよう、あえてベルギーとの国境で彼女が捕まるように仕向けた。ロンドン、ヘント、ウィーンにいる手先らは、フーシェの指示に忠実に従い、彼が王制の最も素晴らしい支援者であると吹聴して回った。そのかたわらフーシェ自身はパリにいて、皇帝の子分の軍人どもから、革命の残りカスの連中にいたる、ありとあらゆる派閥の野心と策動を駆り立てるのに躍起になっていた。

メッテルニヒがフーシェに送った
密使を尋問するナポレオン
この無節操な大臣によるゲームは実際のところ命がけだった。すんでのところで彼は受けるにふさわしい処罰を回避したことがあった。彼とメッテルニヒとの謀議が発覚したのである。二人の政治家は、密使をバーゼルに派遣しあい、ナポレオンをフランスから排除する為に必要な手段を講じようとした。フーシェが知らないところで、ナポレオンはフルーリ・ド・シャボロンを派遣してそのオーストリアからの密使と面会させ、フーシェの裏切りが単なる予想に留まらない物であることを存分に引き出した。だが、まさにその時、奸知に長けた大臣は状況を察知する。彼は宮中に赴くと、普段通りに政務について皇帝とやりとりをし、そして執務室を退出する際に、まるで偶然思い出したかのように、メッテルニヒがバーゼルに使者を送るように要求したが(その目的については口にしなかった)、膨大な仕事に忙殺されてその手紙をナポレオンに見せるのを忘れていたと告げたのである!「総力戦による惨事を回避したいがために、連合国はご子息[ナポレオン2世]に譲る形で陛下の退位を望んでいるのでしょう。メッテルニヒの意見もそうなのだと確信してます。また私自身も同意見だと言わねばなりません。陛下は全ヨーロッパをあげた軍事力に太刀打ちできません。」フーシェは皇帝に使者を送るべきか否かの判断を委ねたのだ!このようにまたも狡知によって彼は命拾いをした。

晩年のフーシェ
ルイ18世が帰還すると、王室の為によい働きをしたと思われたことから、その報酬としてフーシェは引き続きその地位に留め置かれた。だが彼は、国王からの信頼を受け続けるには己の人となり(とりわけ革命期の所業は忘れられていなかった)があまりに広く知れ渡っていることに気づく。代議院の選挙にて、王党派が多数を占めるようになり、また日毎にフーシェの不行跡と裏切り行為を糾弾する声が高まると、彼はこのままの地位に留まり続けては危険が及ぶと確信するに至った。彼は辞任すると、ドレスデン駐在大使に任命された。世の復讐は彼を追い詰める。1816年1月、両院にて、彼は国王弑虐者として糾弾され、フランスの領土に再度足を踏み入れたら死刑に処すと宣告された。彼は当初プラハに、その後オーストリア政府の許可を得て、リンツとトリエステに落ち着いた。1820年、トリエステにて病を得て死去した。

フーシェの人物像についてただ言えることは、血と裏切りと強欲に塗れていたこと、そして、人間の本質の奥底まで汚れきっていたことである。


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