2017年11月9日木曜日

1-19-a ジョゼフ・フーシェ (3)


国事から離れているおよそ2年を、フーシェは決して無為に過ごさなかった。ボナパルトはしょっちゅう彼の助言を必要とし、彼は求めに応じて進んでそれを提供した。彼ほど人間の本性を熟知する者はなく、また彼ほど周囲の人物を完璧に把握している者はいなかった。彼は第一統領の絶えることなく念頭に置いている目標が何か分かっており、彼の燃え盛る野心を煽り立てて止もうとしなかった。彼はあらゆる物事がどう帰結するか見通しており、やがて欧州の命運を支配するようになる人物の好意を確保しようと、帝政の樹立を助言した。王族は暴君であり万民の幸福と相和しないとの理由で、あの良き王ルイに死刑票を投じ、またその際に侮辱さえ加えたこの男は、全ての自由の敵であるこの人物に、人民の権利を恒久的に損なわせる帝位に登極するよう積極的に唆した。この素晴らしき意見の変化の秘密は次にある簡潔な一文に表されている。「あの時のボナパルトは我々の繁栄と尊厳と雇用を確保できる唯一の人物だった。」こうした見解は彼の他にある転向のほとんどを十分に説明しているものの、この件に関しては同じように事実だと承認する向きは滅多にない。

フーシェ
彼が帝国の廟堂のために、革命で獲得された代議制を進んで犠牲としたこと、そしてカドゥーダルの陰謀によって国家元首が身辺を引き続き守らねばならないと判断したこと、言い換えるならば報酬と警察の必要性に基づいて、かつての大臣が掌中とする警察機構の再導入が成された。その権限は増大し、その多岐にわたる組織は再編された。

フーシェの下には4人の参事がついており、彼らは毎週一度フーシェの執務室に集結すると報告書を差し出し、そして指示を受け取った。彼らの主とする任務は、様々な部署の責任者とやり取りし、刑務所と憲兵の動き、そして何よりも異邦人や亡命者、不審人物と思われる者すべてを監視することだった。彼らは自身の権限で些事を片付けることはできたが、重大事は彼らの上司に委ねられた。

彼の組織網は主として雇われたスパイによって成り立っており、彼らは知り得た情報を各責任者、4人の参事もしくはフーシェ自身に報告していた。これらのスパイは男女両方おり、彼らは働きと重要度に応じて一定の報酬を与えられた。より重要性の高い出来事を察知する者は、月に1〜2千フランを受け取り、フーシェに直接情報を伝達していた。あらゆる消息はその送り手の署名がされていたものの、それは実名ではなく、通り名が用いられた。3ヶ月ごとにスパイのリストが皇帝に差し出され、彼は配置やその他の報酬を裁定することで、当該スパイの精勤ぶりが他より抜きん出てることを知らしめた。

こうしたスパイの活動はフランス国内に限られていなかった。あらゆる政府、あらゆる外国の街に、自国民でありながらフランスの支配者に身を売った連中がいたのだ。売国行為は各国の君主の会議室においてさえ頻繁に幅を利かせており、包囲された街の中では一層顕著だった。外語新聞、差し押さえられた手紙や文書は、公私に関わらずフーシェの執務室に運ばれた。こうした卑劣な雇われ人の数は膨大だった。この仕事の卑劣さにも関わらず、高位にある人物もそれに手を染めていた。ある時フーシェは(彼の話では)自分の忠実な手下の中には3名の王侯がいると自慢した。

このような諜報システムの維持費は莫大で、毎年数百万フランを食い尽くした。これは主に闇献金や定期的な税収、賭博場や娼館からの徴収金、旅券の発行の代価によって賄われた。

尋常ならざる権力を与えられたこの大臣は、かつての旧友の共和主義者と帝政を簒奪と見なす王党派を上手いこと新しい王朝に帰着させようと尽力した。彼の功績は報われて、封建制度が創設された暁には忘れられることはなかった。彼は与えられたオトラント公爵位について、「皇帝の福引から引き当てた麗しく素晴らしい当たりくじ」と述べた。

オトラント公フーシェ

常にこの国王殺しは旧王朝の復古の可能性は最小であるのが望ましいと思っていたが、彼がそうなる事を非常に恐れていたのは容易に想像でき、よって彼は何としてでもそれを阻止しようと努めた。ナポレオンがおそらく己の輝かしい遺産の後継者と定めていたオルタンス・ボアルネの幼児の死と、皇帝がジョゼフィーヌとの子宝を決して期待できなくなったことは、支配王朝の運命に自身の運勢が結びついている者らの間に相当な危機感を生じさせた。フーシェは後継者問題がブルボン復古の兆しとなると察した最初の人物の一人だった。これに関して皇帝が心に秘めていることを見通していたフーシェは、決定打を放った。彼はナポレオンにジョゼフィーヌと離婚をして、だれか若い王女と結婚するよう助言した。否、彼は比類なき厚かましさでジョゼフィーヌ自身にも犠牲となるよう勧めたのだった。

「この提案には(彼の話では)ある程度の前準備が必要だった。私はフォンテーヌブロー城にて日曜日のミサのあとに探し求めていた機会を得た。会話しながら、私は窓の斜間に彼女を引き入れた。私の話術が許す限り慎重に言葉を選びつつ、可能な限りの気配りしながら、私は彼女に、それが最も崇高にして、同時に最も避けがたい犠牲であるとして、離婚について初めて考えを明かした。はじめに彼女の顔は紅潮し、次いで青ざめ、唇はふるえ、その見た所全ては彼女が気絶するか、もしくは激昂するのではないかとの恐れを抱かせた。彼女は口ごもりながら私に、指示を受けてそのような苦々しい提案をしているのか尋ねた。私は誰かの指示ではなく、自分の予想としてそれが明らかに必要であるがゆえに口にしたと返答した。」

ジョゼフィーヌからの不平を受けて、皇帝は彼の大臣の早まった真似は本意ではないと告げて、全力で彼女を宥めようとした。だが彼は決してフーシェの更迭に同意しなかった。このような状況は彼女に対し、離婚が何も新しく生じた課題ではないと見せつけたことだろう。いや、既に決定されていたのだ。我々はそれが事実だと容易に受け止めているが、皇后はそんな離婚は意図されていないと信じきって、受けた屈辱を忘れてしまった。

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