2017年11月12日日曜日

1-19-a ジョゼフ・フーシェ (1)




ジョゼフ・フーシェ、自国の情勢に極めて重大な影響を及ぼすべく運命付けられたこの人物は、1763年5月29日[実際は1759年5月21日]にナントに誕生した。

商船の船長であった父親が息子を船乗りすべく望んだことから、若きジョゼフはオラトリオ会の学校に送られ、そこにて数学を学んだ。しかし、彼は海が大嫌いだった。実際のところ神経質な性質の彼にとって、自然の荒々しさは馴染めないものだった。彼はまったく違うキャリアを選択する。彼はオラトリオ会の誓約会員となった。そして教師に適していると自覚を生じて、三角関数にのめり込み、哲学やスコラ学を理解する明敏さを有していると自負したことから、パリに移って学問を修得した。彼が聖職者を目指したという説は間違いだ。オラトリオ会の一員として、僧侶たちがするのと同様に貞節と服従の誓いを立てていたが、そのような誓いはローマ・カトリックにおいては、人生を若者の指導へ捧げようとする在家信者同士の間のお決まりの作法だった。その後彼は幾つかの街で教鞭を握り、革命が勃発すると、ナントにある学校のお偉方の一人となった。

フランス政治の激変をフーシェ以上に心から歓迎した者はいないだろう。衝動によるものか或いは他に倣うようにして、人々が広がっていく思想を受け入れたのに対して、彼は熟慮と自身の志向に基づいてそうした事を誇っていた。すぐさま彼は偏向教育がもはや自分を支配しないことを確証した。彼は結婚によって誓いを破り、それによって聖職者の仲間たちと決別する。彼は愛国者協会という名の政党を立ち上げるが、その会合では、不敬神の確固さと革命主義の激烈さによって、他のメンバーを圧倒した。彼の人気はかなりのものだったので、低ロワール地方の代表として国民公会に送られた。

天はフーシェに公開弁論の高台につくに相応しい才覚を与えなかった為、彼は滅多に演壇に立たなかった。しかしながら、あの哀れなルイの裁判の時、彼は浮動票を与えるのに満足しようとしなかった。投票によって国王の運命を決定しようと提案する際に、彼はこう述べている。「暴君の死以外に、投票によって決すべき物は無いと想定している。王政を打倒した時のあの勇気、それに我々は尻込みしているかに見える。我々は国王の影にびくびくしている。共和主義者たらんとせよ。さあ国民によって我々に与えられた大権を行使しよう。大義に向けて我々の義務を果そうではないか。我々は全ての人間の権限と行く末を采配するに十分な偉大さを有している。地上の王侯に対抗する時が到来したのだ。」フーシェは「妨げられない、速やかなる死刑」に投票して締めくくった。

この国王殺しは熱意が認められて国民公会の布告を実行する道具に選ばれる。彼は怪物どもを満足させる仕事に従事する自分自身を罪深いと感じなかった。投獄、追放、殺戮、オーブおよびニエーブル県で、彼の行く先には常にこれらが伴った。彼の敵意はとりわけ僧侶たちに向けられる。83名もの僧侶がナントに移送され、この不運に見舞われた街の名高き溺死刑(溺れ死にする結婚!)の光景を描いて見せた。そして教会はすべて略奪され徹底的に破壊される。それだけにとどまらない。魂の不滅、このキリスト教が依拠する教義を攻撃したのだ。「死は単に永遠の眠りに過ぎぬ」そう彼は公共墓地の入口にくっきりとした文字で刻み込んだ。

『共和国の結婚』ことナントの溺死刑

彼のナントでの働きがどれ程の価値があろうとも、その後リヨンで喜々としてやってのけた事に比べれば可愛らしいものだった。彼はコロー・デルボワと共に赴任すると、おののく市民に向けて、彼らが人民の至上権に抵抗しようとしたこと、とりわけ革命政府からの代表者を殺害したことへの報復を宣言した。「派遣議員らは苦痛を感じることなくその使命を遂行するだろう。彼らは公然たる復讐の雷撃をその手に委ねられており、人民の敵が倒されるまで投下を止めはしない。彼らは陰謀家どもの無数の墓の上を進軍し、果てし無い破壊の跡を横切って、国家の幸福に、そして全世界の刷新にたどり着くであろう!」彼は同じ調子でパリにいる雇い主らにもこう書いた。「我々の酷烈さを緩和できるものはありません。手ぬるさ、それは危険な弱点だと言わねばなりますまい。人民の敵を攻撃する手を決して止めてはなりません。我々は奴らを一気に、見せしめになり、恐ろしく、迅速な方法で殲滅してみせます。ローヌ川に投げ込まれた血みどろの死骸は、河口の両岸にて恐怖と人民の万能性を示す見世物となるに違いありません。恐怖、有益なる恐怖こそが真実この時代の道理なのです。恐怖は悪人どものあらゆる努力を押さえ込み、犯罪の覆いと虚飾を剥ぎ取って見せるでしょう!」復讐の誓いに背くことなく、フーシェおよび恥知らずの供連れは、処刑に向けて収容された王党派たち全員のリストを日ごとに用意する。ギロチンを常に稼働させるのみならず、何百もの犠牲者をぶどう弾によって一度に処分した。「ついこの夕方」手紙(1793年12月19日付)で彼はこう著した。「我々は215人の叛徒を雷撃の的とした。」端的に言って彼は、「リヨンは後代に恐ろしい破壊の光景として、かつ共和主義による復讐と民主主義の力の金字塔として伝わるだろう(1794年2月13日付の手紙)」との根拠にて己の所業をいくぶん鼻にかけていたのだった。

リヨン市民に砲を向けるフーシェ

この国王殺しが意気揚々と任務から帰還したところ、ロベスピエールから「自由の敵」として非難を受ける。この非難の行きつく先は死刑であることは万民の知るところだった。彼がどうしてこの同志の不興を買ったかは定かではない。ある話では、あまりに度が過ぎて革命の名を汚したと責められたと言う!事実として彼が背負うに値する以上の悪名を彼に帰するつもりはないが、むしろ彼が滅多に人道面に配慮しなかったことが咎められたのだろうと思われる。たとえその通りだとしても、フーシェはロベスピエールがあと数日でも生きながらえようものなら、己の破滅は避けられないと察した。彼はタリアン、ルジャンドルら独裁体制に不満を持ち、脳天に斧がまさに振り下ろされそうになっている連中のもとに大慌てで駆け込むと、かの暴君を引きずりおろす企てに乗るよう唆した。「貴君の名前も私同様にブラックリストに載っているんだぞ!」と、大仰な文句を用いて彼は説得を行った。危機感の共有が、一致団結した抵抗を可能にし、犯罪の記録のうち最も血に塗れた一頁に名を載せる怪物を打倒させた。

テルミドール9日

この用心深い民主主義者は日ごとに世論がこうした革命の戦慄に対して嫌悪感をつのらせていくのを察するや否や、しきりに迎合して人道性を求めて声を上げはじめた。かくも機敏にすり寄ったにも関わらず、当局の穏健派の憤慨を浴びて、彼は一度ならずテロリストとして糾弾され、首都の壁のはるか向こうでその罪深い首をすくめながら身を隠すことを強いられた。総裁政府が全国に恩赦を出した後でさえ、彼が重要な公職にありつくまで長くかかった。だがそうは言っても、彼は最もゆるぎない革命主義者だったうえ、その才能が上位にあることはよく知られていたので、やがてバラスによって登用された。1798年、彼はイタリア大使として派遣され、次いで同じく大使としてオランダに送られたところ、新しい警察を統括するために呼び戻された。フーシェの警察、これはそれまでに専制政治の援助によって設立されたものの中で、一番手強い機構となった。

0 件のコメント:

コメントを投稿