この皇女はドイツ皇帝フランツⅡ世とナポリのマリア・テレジア・フォン・ネアペルとの間に、1791年12月12日に生まれた。
幼少時から、この大公女は、格別な気質の優しさ、穏やかさ、そしてあらゆる面での人当たりの良さを有していた。それゆえ、彼女は家族の、とりわけ父親にとってアイドルであり、彼女の父親への影響力は絶大だった。
皇帝一家 |
ナポレオンと マリア・ルイーザの婚礼 |
結婚して1年も経たないうちに、マリア・ルイーザは皇帝との間に息子を産んだ。出産はこの上なく難産で、産科医は神経を張り詰めていた。ナポレオンは彼を励まして「彼女が皇后であることは忘れ、町外れのサン・ドニにいる最も可哀想な女に対応しているのだと思え。彼女はただの女だ!」と述べた。新生児は死産かと思われたが、101の砲声によって意識を取り戻した。
皇后とローマ王(ナポレオンⅡ世) |
あらゆる類の陰謀とも野心とも無縁であったこの皇女は良妻賢母の鑑であった。夫を満足させ、従うことも、幼い息子の世話をすることも、彼女にとって職務であり喜びであった。ナポレオンが1814年に戦役のためパリを出立すると、彼女は摂政皇后として残された。しかしこの権威は単に名目的なもので、実際の権限は摂政評議会に付与された。彼女は政府の運営も、家庭以外の何事についても、才能も嗜好もわずかしか持ち合わせていなかった。連合国軍が迫ってくると、彼女はブロワに避難した。そしてパリ条約が締結されると、彼女は父親の宮廷へ帰還し、皇后の称号を剥奪されると、パルマ、プラケンティア、グアスタッラ女公の称号と連合国によって認められた封土の統治権を与えられた。
ナポレオンの二人の妻の間には大きなそして驚くほどのコントランスがあった。ジョゼフィーヌはあらゆる手管と習得した優雅さを有し、他方マリア・ルイーザは全てにおいて自然かつ質朴だった。前者はその振る舞いにある種の大胆さがあったが、後者はしばしば内気とも言えるほど極めて遠慮がちであった。前者は相当な才能を有し、それを大勢の前で喜んで披露したが、後者の方の才覚はさほど際立っていないとしても、彼女の年齢にしては堅実なものであった。ジョゼフィーヌはサロンでの賞賛を浴びるに似つかわしいもので、マリア・ルイーザは家庭愛そのものだった。実に奇妙なことに、自らを作り上げた人物は西インドの入植者の娘で、自然なままの性質を備えた人物は、欧州で最も尊貴なる家系の皇女であった。それ以外では、どちらの女性も性質の愛らしさを備え、ナポレオンに献身的であり、貧しい者たちに善意を施した。マリア・ルイーザの慈悲心について一例として、彼女の家政の管理者の一人であるデュラン夫人の記録を紹介する。
「ある夜、皇后が晩餐の席を立ち、自室に下がった時、エスペランスという名のとても誠実な性格の下男が興奮した様子で入ってきて、彼が今しがた目にした辛い光景を女官たちに知らせようとした。彼は、エシェル通りにある家の7階に住むある家族について、主人とその妻および子供が6人もいるのに、もう2日間も食にありつけていないと告げた。彼はその境遇を知ると、実際に見に行き、それが事実だと確かめた。しかし彼らをどうしようにも与える金が無く非常に悲しい思いをしたと言う。ある女官は困窮に陥った気の毒な犠牲者たちの為に、彼に10フランを与えた。さらに彼女は、皇后が戻ってくると、彼らの悲惨な境遇を伝え、救援するよう促した。皇后は即座に400フランをその家に送るよう命じた。皇后陛下は、時刻は深夜に差し掛かり、すでに10フランが送られていることから、その貧しい者らは明日の朝まで待つ事ができると説得されたが、『いいえ』と返事をすると、『そのお金をすぐに送って頂戴。私は自分の力で彼らが安心して素晴らしい夜を過ごせると思えるのが嬉しいのです』と告げた。その救援金はすぐに送付され、この一家は引き続き長いあいだ皇后からの助成を得られた。」
おそらく1825年だったと記憶するが、彼女の夫が死去したのちに、マリア・ルイーザはナイペルク伯爵の求婚を受け結婚したが、欧州の王室からの認知を得られなかった。ナポレオンとの間の息子はウィーンで教育を受け、ライヒシュタット公の称号を得ている。彼は人当たりの良い性格をし、かなり嗜み深い若者で、祖父の皇帝から大いに寵愛されていると伝えられる。いかなる運命が彼を待ち受けているか、誰があえてそれを推測できようか?
ライヒシュタット公 (ナポレオンⅡ世) |
0 件のコメント:
コメントを投稿