2017年8月1日火曜日

1-09-a エリザ・ボナパルト








皇帝の一番年上の妹は1777年1月8日にアジャクシオに生まれた。

1797年、この若き婦人はコルシカ貴族のフェリックス・バチョッキと結婚する。この一族には農民も商家もいずれもその構成員に含まれていなかった。彼が彼女に求婚した知らせがちょうどイタリアにいたボナパルトに届いた時、彼はにべもなくこの縁組を拒絶したが、それもそのはずだった。バチョッキ(1762年出生)はかなり早い年から公務についていたにも関わらず、素寒貧かつ地位もなく、砲兵隊長以上の階級にたどり着いていなかった。しかし母のボナパルト夫人は、この結婚を結実させようと切望していた。その理由は推測するしかないが、彼女は娘の幸福はこの縁組にかかっていると考えていた。彼女は息子の意志におおっぴらに反する形でこの結婚を実現させる気は無かった。彼女は策略を用いる。彼女は息子に手紙にて、愛するナポレオンから何の返事も無かったので、母親が祝福を与えようとする人物と妹との縁組に反対する気はないと確信したのだと告げた。ナポレオンは不満だったが、もはや手の施しようがないので、彼はこの不都合な縁戚を十分活用しようと知恵を巡らすことにした。彼は義弟をまず大佐に昇進させると、次いで将軍に任命した。

フェリーチェ(フェリックス)・バチョッキ


バチョッキ夫人は兄のリュシアンの影響で芸術と文学の両方を嗜好した。彼女は文壇を好んだが、精神面における度量も明敏さも生まれ持っていなかった。彼女は獲得した僅かばかりの知識も消化不良であり、彼女はフランス人が表現するところの粗忽者であり続けた。だが賞賛すべきこととして、彼女が才能ある者を育成した事を述べておかねばならない。さらに、彼女自身が奨励するには才能を有していない分野においてさえも、滅多に間違う事なくその才能を有した人物を見出した。それ以外の点においても、彼女のやり方は十分に分け隔てが無かった。彼女は夫をこの上なく軽侮していた。彼はきっとそうされるに価する人物であっただろうが、それでも彼女が日ごとに彼を侮辱するのが許されて良いはずは無かった。実際のところ、彼は彼女の家令よりも下の扱いだった。それ以外にも、伝えられるところによれば、彼女は数多いる賞賛者の存在をなんら隠そうとしなかった。1

1805年、エリザはルッカ主権公国を、その後すぐピオンビーノを授けられた。7月、彼女とその夫は戴冠するが、哀れなバチョッキは政治にほとんど関与できなかった。彼はこの壮麗なるこけおどしの傀儡でしかなかった。公式の催事ではいつも彼は妻の後ろにつき、観兵式では彼は妻の副官以外の何者でもなかった。トスカーナ大公国の授与と、強欲なおべっか使いたちが彼女の耳に入れる空虚な賛辞によって、彼女の自尊心はさらに充足した。この女性はすっかり自惚れてしまった。彼女はセミラミスについて知ると、それと張り合おうとし、ルッカのセミラミスと呼ばれるとこれ以上ないほど喜んでみせた。

ルッカ

とうとう逆境が訪れると、腰巾着たちは去っていき、友達は一人も残らなかった。彼女の領地は連合軍によって占領され、彼女は逃亡を強いられた。彼女はボローニャに居を定めようとしたが、ボヘミアにいる妹カロリーヌのもとに送られた。いくばくかの後、彼女はトリエステに住む許可を得て、1820年8月にその地にて死去する。

1 善男善女にとって衝撃を与えかねない人物であるので、あえてその名前を伏せるが、とある愛人に関する逸話として、彼女はC氏という旅役者に熱を上げていたが、飽きると彼に男爵の称号とレマン県の知事職を与えた。彼がその栄誉を楽しむ間も無く、彼が所属する一座の支配人がジュネーブに到着し、芸を披露しようとした。しかし事前に県知事の許可が必要だったので、彼は知事の元に赴いた。しかし彼はこの身分高き人物との面会を許されなかった。彼はたじろがず、知事と顔を合わせようと、警吏に構う事無く階段を駆け上ると、著名人らに囲まれた男爵に突っ込んでいった。「なんと!これは君かね、C君?舞台を捨てて、ここで雇われているのかね?私を知事に紹介してもらえないか?」思った通りだが、男爵は針の筵だった。彼は支配人を執務室へと急かすと、彼の力になりたいと全身で願っていると称して、良い気にさせて退散させようとした。しかしながら、一時間の中に、 支配人はその場所を去るよう命令を受け、強制的に従わされた。

2017年7月17日月曜日

1-05-a ジョゼフ・ボナパルト (1)




仮にナポレオンの近親者が各自の才能と働きによってのみ人々の注意を引き付ける条件下に置かれたとしたら、彼らは今も記憶に留まることができなかっただろう。平時ならばいずれも一般人以上の存在にはとてもなれず、さらに言えばそれ以下に留まっていたはずだ。彼らは単なるナポレオンの道具—愚鈍かつ役立たずだったがーであり、それゆえ歴史の女神はその廟堂の内に彼らの為のひと間を与えたに過ぎなかった。

兄弟の長子ジョゼフは、1768年1月7日にアジャクシオに生まれた。彼はピサ大学に入学し、法学を志す。しかし1793年にイギリスによってコルシカが侵略されたたことで、一家は揃ってフランスへ避難した。彼らの運勢はどん底に落ち入った時、将来はこれ以上好転しないかと思われた。しかしながら、ナポレオンは成功をまさに手に収めようとしていた。

ジョゼフ
この運命の申し子が帝王の錫杖を手にした時、ジョゼフは軍事と民政の両面における高い地位を与えられた。当然のごとく、彼は弟に心から傾倒しており、そして見返りを期待しているかに感じられた。1805年にナポレオンが戦地に赴いた際には、彼は帝国議会議長に任じられ、政府の監督役を任された。しかし、こうした信頼の証は、更なる高位への前段階に過ぎなかった。皇帝の勅令によってナポリ国王は「統治を終えた」と宣言され、ジョゼフはこの王国を侵略する軍隊のトップに据えられた。おそらく欧州で最も臆病な国民からの抵抗は僅かかと思われたが、彼はマッセナとグーヴィオン=サン=シールの2名の最も有能な部下を引き連れていた。愚鈍なフェルディナンドは逃亡し、役立たずの軍隊は自ら武装を解除し、烏合の衆は変化に喜びーそれがどんな類の物かもわからないでいたがーフランス軍の登場を喜色満面で歓迎した。この国は血の一滴も流れることなく征服され、所有者のいない王冠はジョゼフに授けられた。

彼に才能が無いとするならば、おそらく国王の責務への適性も同様に持ち合わせていなかった。身なりは簡素で、またそれ以上に飾り気がない彼は家庭の喜びに強い愛着を持っており、これは天が彼に与えた唯一の適性であった。彼がこの煌びやかな贈り物を喜んで受け止めたかどうか疑わしい。彼は弟からの一定の援助なしには自身の地位を保つことは不可能と明快に理解しており、加えて、彼は弟の性格を知り尽くしていたので、自分がフランスの臣下以上の存在にならないだろうと確信していた。

ナポリ国王ジュゼッペとして

この新しい国王の政府—むしろ言うならば彼を支配するナポレオンの創造物—は善と悪の混合物だった。彼は憲法に重大な改変を行い、フランスと同様に人民が持ちうる多くの原則を導入した。彼は教会の権勢を抑制してその財源を我が物とし、封建的特権を撤廃して上流階級には有害だが下流階級には好ましい多くの変化をもたらした。実際のところ、逃亡したあの情けない王朝の後ならば、どんな政権であろうとも祝福の歓呼を浴びるとしても、彼自身の必要性というより皇帝の厳しい要求に強いられて臣民を苛斂誅求しなければ、彼の性格の欠点が民衆からの嘲りの対象となりつつも、彼はきっと人気者になれただろう。あまりに覇気に欠けていたので、彼はナポレオンの最も不人気な政策を諾々と実行した。国事に煩うにはあまりに怠惰な彼は、政治を貪欲かつ放埓な家臣たちに丸投げした。彼が行動らしきことをした唯一の機会は、こけおどしの王者の威風を高めようとした時、ならびにどんちゃん騒ぎに大枚をはたいた時のみである。

ナポリ王宮 カゼルタ宮殿


2017年7月16日日曜日

1-05-a ジョゼフ・ボナパルト (2)


スペイン国王ホセとして

1801年、ナポリ王位を平穏に楽しんでいたところ、ジョゼフは一層輝かしく、そして一層悩ましい運命が待ち受けるスペインへと呼び出された。彼は猛々しいスペイン人は奴隷のごときナポリ人よりも幾分御し難いだろうと気づいており、国王の地位を辞退するというまともな感覚を有していた。しかし彼の意向は取るに足らぬと判断され、彼はピレネー山脈を無理やり越えさせられた。彼のマドリッドでの統治は、彼の裁量の及ぶ範囲では、ナポリにおけるそれと似通っていた。弟の従順な手下であったが、彼自身の性格は強権的でも残酷でもなかった。すなわち、前と同じように怠惰で無能、放蕩にして無為であったので、彼の新しい血の気の多い臣民からは、憎まれるというより嘲りの対象となった。軍隊による国防は彼の部下たちに任され、彼らはジョゼフに従うよりも頻繁に彼をナメてかかった。この国の一部分は常に民衆暴動に苛まれ、他方では外国の敵がはびこっていたため、彼の権威の及ぶところはフランスの軍隊が占領している範囲に限られた。その中においてさえも、彼の権威は名目だけで、実際の権限は第一に皇帝本人が、次いで元帥たちが掌握していた。スペインの王笏が彼の慎ましい手にはあまりに重いと気づいたジョゼフは、何度も望んでいない重荷から解き放って欲しいと願い出た。彼が持ちえた僅かばかりの権力でさえも不安定だった。彼は2度にわたって首都から追い出され、2度帰還し、彼自身はさほど手を下さなかったが、フェルナンド[スペイン王太子]派パルチザンに向けられた過酷な報復を目の当たりにした。3度目に首都を脱出すると、彼はそこに戻ることはなかった。彼は敵軍に至近距離まで迫られ、ヴィットリアにて対峙したが、決定的な敗北を喫した。彼の財宝および王笏、王冠は勝利者の手に落ちたーあわや彼も同じ運命をたどるところだった。彼は這々の体でバイヨンヌにたどり着く。これは彼がその国民の意思に反して、王位を簒奪して自分のものとしたことへの報いだった。

『酔いどれホセ』
スペインの風刺画

1814年、皇帝が戦場に赴いている間、前国王は帝国の副将軍としてパリに置かれ、国民衛兵を指揮すると共に、皇后の国事行為の代役となるかたわら、迫ってくる敵軍に備えて首都の防衛にあたった。彼は観兵の際、兵士らに共に最後まで戦うと宣言した。しかし、連合国軍がパリに到着すると、家族への愛が弟への義務感を上回り、降伏条件の調整をマルモンに丸投げして逃亡した。彼は最初にオルレアンに向かい、ついでブロワに行き、ナポレオンが退位した後、スイスへ逃亡した。その地で彼は地所を高い金を出して購入した。だがこれは、彼が民意に無頓着でいながらも、自分に関わるものには執着していたという証拠となる。

1815年、ナポレオンがパリに帰還すると、元国王も同じく戻ってきて高い地位を再び授けられるが、すぐにそれを失う羽目になる。ワーテルローの後、ジョゼフは弟と同様に、アメリカに逃亡する望みをかけてロシュフォール港に急行した。9月、彼はニューヨークに上陸し、フィラデルフィア付近に身を落ち着かせ、現在もシュルヴィリエール伯爵の呼び名でそこに滞在している。彼は相当な数のフランス人亡命者に囲まれ、結構な土地を所有し、かなりの金持ちとみなされている。彼がパリから2度目に逃亡を図った時の略奪ぶりは大層なものだったのは確実と言えよう。

1820年代のジョゼフ

一個人としてのジョゼフの性格は、愛想が良い以上に才能が不足していたと評価される。彼の立ち居振る舞いは疑いもなく穏当で謙虚であり、気質は幾分優しかった。彼は寛大な夫にして父親であると見なされ、ナポレオンに対してはずっと誠実な兄であった。しかし彼は強欲かつ放蕩であり、略奪者かつ道楽者でもあった。しかしながら、ナポレオンがセント・ヘレナに追放されるまで、彼は哲学的見地を有し、豊かな知識の持ち主と評されていた。1799年、『ムワナ』と題された短編小説を出版し、その15年後その第2版を世に出しているが、我々は最も熱狂的なボナパルティストを含めそれを賞賛しているのを見聞きしていないことから、彼らにとっても誇りとするに値しない出来と考えられる。彼の人物像を一文でまとめるならば、高尚な精神も威厳も雅量も持たない、柔弱で享楽的な大人しい人物だったと言えるだろう。

2017年7月3日月曜日

ベシエール 補記

ベシエールだが、かなり高評価を受けている。全体的に毒舌傾向の本書の中で、ここまで手放しで褒められている人物はかなり珍しい。特に内面・素行が、ナポレオンの部下とは思えないほど、優れていたと強調されている。つまるところ、本書の著者は、ナポレオンの部下全般を言ってしまえばゴロツキ集団と捉えていたということか。

実際のベシエールだが、本書でも述べられている通り、物腰は紳士的で、ナポレオンは威儀が求められる親衛隊長に任命するにあたり、そうした要素も考慮に入れたとのこと。ナポレオンに近侍し信頼を得ていた彼だが、周囲と全く問題なくやれていたかと言うとそうでもなく、ランヌから親友ミュラ共々目の敵にされていた逸話は有名だが、他にもネイとも悶着を起こしている。

1804年、帝政の幕開けと共に元帥に選ばれた事に対し、マルモンが「ベシエールがなれるなら、誰でもなれる」と口にしたと言うが、軍司令官を務めた事のない彼が選ばれたのは、皇帝のえこひいきと見る向きもある。もっとも、他にランヌ、ダヴーらも、軍司令官にならずとも元帥に選ばれているので、彼ばかりが特例と言うわけでもない。

1805年のアウステルリッツの戦いでは、ロシアのコンスタンチン大公指揮下の皇帝親衛隊めがけて、親衛騎兵隊を率いて突撃を行い、プラッツェン高地の獲得に貢献する。1807年のアイラウの戦いでは、ミュラの騎兵ともにロシアの戦列を突き崩した。

ベシエール
1808年、第2軍団長としてスペインに送られる。ここで初めて本格的に独立した軍団の指揮を委ねられた。本書にあるように、メディナ・デル・リオセコの戦いでは、優勢のスペイン軍を見事敗退させた。ただし、本書で言う犠牲者数27,000人は誇張されている模様。ジョゼフをスペイン王位につけるのに貢献したものの、デュポン軍団がバイエンで降伏すると、ジョゼフはマドリッドを追われ、ベシエールもブレイクとキュエスタに押されエブロ川まで撤退を余儀なくされる。フォワ将軍は彼について「勝利を組み立てられるのに、それを活かせない」と評している。半島にやってきたナポレオンは彼の能力の限界を察したのか、軍団の指揮権を取り上げスルトに与え、ベシエールを再び親衛隊指揮官に戻した。

1809年、オーストリアとの戦いが始まると半島から戻される。エスリンクの戦いでは、中央に配置され、優勢の敵軍に対しよく持ちこたえた。また、この戦いの間に起きたランヌとの諍いの逸話はよく知られている。オーストリアとの和約が締結した後、ナポレオンはジョゼフィーヌと離婚をして、オーストリア皇女マリア・ルイーザと再婚するのだが、個人的にジョゼフィーヌと親しかったベシエールはこの離婚に反対したと伝えられる。

1811年、彼は再びスペインに送られ、北方軍の指揮をとる。しかし、ナポレオンという最高司令官が不在だと、元帥たちは全くもって相互の連携を欠くようになっていた。ポルトガルに侵攻したマッセナは、ウェリントンの築いたトレス・ヴェドラス線を攻めあぐね、アルメイダに向けて撤退を開始した。5月3日、追撃するウェリントン軍と、フエンテス・デ・オニョロにて合戦となる。マッセナはベシエールに対し、全軍をあげて救援に来るよう要求したが、ベシエールはわずか800ばかりの騎兵しか送らず、しかもその指揮官はベシエール以外からの命令は聞かないと言い、マッセナからの敵軍に向けて突撃せよとの指示を拒んだ。後にウェリントンは、ベシエールのマッセナへの支援拒否がフランス軍の敗退を招いたと述べている。激怒したマッセナはナポレオンに訴えたが、マルモンと交代する形で司令官を更迭された。ベシエールもまた指揮権を取り上げられた。

1812年のロシア遠征では、より拡充された親衛騎兵隊を率いた。9月7日のボロディノの戦いの時、ロシア軍の中央が崩れかけているのを見た元帥らは、ナポレオンに皇帝親衛隊の投入を要請した。しかし、ベシエールはそれらを将来のために控えておくよう助言をした。このせいでフランス軍の決定的勝利は失われたと彼を批判する向きもある。他方、モスクワからの撤退時には、チェルニヒウにてコサックの襲撃を受けたナポレオンを救い出してる。

1813年、ミュラが離脱してナポリに帰還すると、全騎兵の指揮官となった。そして5月1日のルッツェンの戦いの前日、リパッハにて弾丸の直撃を胸に受け、命を落とす。その死にあたって未亡人となったベシエール夫人に、ナポレオンはこう手紙を送った。「貴女の夫は名誉の戦死を遂げた!貴女と子供達の喪失感は疑いもなく大きいだろうが、私にとっては更にだ。イストリア公は、苦しみもなく、最も美しい死を遂げた。彼の名声に汚点は見当たらない。これは彼が子供達に残しうる最も見事な遺産だろう。私は子供達の庇護者となろう。子供達は私が父親に抱いた愛情を引き継ぐことができる。貴女の悲しみを慰めようと配慮していると察し、私の貴女へ抱く心情を決して疑わないで欲しい。」死後ベシエールは多大な借金を残したが、それは彼が愛人に相当な金をつぎ込んだせいとのこと。ナポレオンはその借金を清算してやり、また未亡人に手当を与えている。

ベシエール夫人

こうして概観してみると、完全無欠な人物というわけではなさそうだが、人道的な面で問題がなければ、多少の瑕疵には目を瞑るというのが本書のスタンスなのかもしれない。

2017年6月21日水曜日

1-26-a ジャン=バティスト・ベシエール(1)







ロット県のカオールに程近い町プライサックに、1768年8月6日、ジャン=バティスト・ベシエールは生誕した。彼の出自は同郷人のミュラ同様に低く、二人とも軍人なろうと強く意気込んでいた。彼はルイ16世の立憲衛兵を志願し、入隊の機会を得る。こうした中、1792年8月10日の騒乱の折、彼は慈悲深くも危険を顧みず奮闘して、王妃に近侍していた人々を何名か救い出した。この行動は、以降に彼が獲得する戦勝の桂冠以上に、彼に名誉をもたらした。

ベシエール
立憲衛兵が解体されると、若きベシエールはピレネー方面軍の騎兵連隊へ配属された。スペインの北部にて彼は良い働きをし、一兵卒の歩哨から大佐に昇進する。彼の才能か、もしくは所属する旅団の上部の判断によるものか、1796年に彼はイタリア方面軍に配属するやいないや、他の将軍の誰よりも軍事に優れた人物を見出し、報酬を与えようとする人物の目に止まった。彼がボナパルトの目を引き始めた最初の瞬間、まさにこの時から彼の運勢の地盤は固まった。ある日彼がオーストリア軍の砲兵中隊に向けて前進している時、乗っている馬が殺された。彼は急いで倒された馬から身を離すと、兵器類が大きくひとまとめとなっている上に飛び移り、それを守備する砲兵に向けて勇壮にサーベルを突きつけた。彼の二人の部下が援助しに騎馬で駆けつけてくれたので、彼は意気揚々と砲を持ち去ることができた。司令官は彼の行動の威勢の良さに感心すると、この勇ましい士官を自身の守備隊の指揮官とした。この部隊は、拡大を遂げ、やがて有名な皇帝親衛隊となり、この新たな寵臣はその指揮を死去するまで取り続けることになる。

オーストリア砲兵と戦うベシエール
(ロヴェレートの戦い:1796年)

帝国元帥ベシエール
帝政下では、この士官は今や帝国元帥となり、引き続き能力と熱意を主君への奉仕に向けて発揮し続けた。1805年、彼はドイツで幕を開けた戦いに駆けつけ、そしてティルジットの和約の締結まで絶えることなく用いられた。彼はイエナ、ハイルスベルク、フリートラントそしてアイラウの戦いに参戦し、これらの重大な戦役の間全てにおいて、勇ましさと用心深さを並存したところ—これらはナポレオンの部下でさえ稀にしか持ち合わせてなかった—を披露した。1808年、次いでこの元帥はスペインに活躍の場を移す。彼は第2軍団の司令官となり、司令部をブルゴに置いた。立派な振る舞いと、フランスの指揮官には稀な穏健さを併せ持っていた彼は、愛国心に燃える民衆たちによって延々と勃発する反乱を、誰よりも上手に宥めた。彼のこうした献身は貴重であり、民衆たちから喜びをもって受け止められはしたが、おそらくピレネー山脈の向こうに届く彼の名声に一層の光彩を加えるものではなかった。しかし運勢は彼の名に同僚の元帥たちよりも一層の輝きをもたらす機会を与えた。勇敢だが慎重なスペインの将軍のキュエスタは、フランスとマドリードの連絡線を遮断する目的で、大軍を率いてブルゴに向け進軍した。ベシエールは13,000以下の兵力しかなかったが、躊躇せず打って出た。双方の軍勢はメディナ・デル・リオセコの近くで相見え、そして激戦の火蓋が切って落とされた。非常に多くの兵力を抱えているスペイン軍は当然ながら幾度も優位に立ったが、フランス騎兵による左翼への突撃がそれら全てを突き崩し、最終的にその日の勝敗の動向をひっくり返した。スペイン兵は完全に潰走し、彼らの物資は勝者の手に落ちた。もし近郊の僧侶の言うことが正しければ、27,000の死体が戦場に埋もれたとされる。

メディナ・デル・リオセコ の戦い(1808年)   
この戦いの成功はナポレオンにとって決定的な物だったので、彼は「これは2度目のビリャビシオサ[1710年に起きたスペイン継承戦争中の戦い]だ。ベシエールは私の兄を王位につけさせた!」と声を上げた。この勝利はマドリードへの道を開き、そこにてジョゼフは即座に王家の標章を我が物とした。またこれによって元帥は、イギリスがスペインの愛国者たちに提供した武器や軍備品を獲得した。

2017年6月20日火曜日

1-26-a ジャン=バティスト・ベシエール(2)


ワグラムでは、彼はオーストリアの側面に向けて騎馬を繰り出した。激しいぶつかり合いが起き、彼はあわや致命傷を被りかける。弾丸によって騎馬から放り出され、つかの間、彼は戦死したかと思われた。愛する指揮官の最期に直面して、部下たちの嘆きぶりは他に勝るものは無い程だった。しかし喜ばしいことに、負傷は軽微なもので済んだ。部下たちの彼に向けた愛着は深く、この結果は何よりのことだった。彼は敬意を受けるに値する勇敢さを有しているだけではなく、飾り気のない人柄の良さ、人当たりの穏やかさ、気立ての良さ、最下級の兵士たちにさえ喜んで親しく接する態度は、部下たちの心を確実に掴んでいた。「ベシエール、」彼らと同じくベシエールが助かった事を喜んで皇帝はこう述べた。「そなたはあの弾丸に義理を感じねばならんぞ。あれは私の親衛隊全員をそなたのために嘆かせたんだからな!」

ワグラムの戦いで負傷するベシエール(1809年)

1811年、ベシエールは古カスティリヤ[カスティーリャ・ラ・ビエハ]とレオンの総督に任じられ、1812年には、光栄にもロシア遠征に随行した。次の戦役[1813年のドイツ戦役]では 、ベシエールはミュラが担っていた職務、すなわち全軍の騎兵部隊の指揮官となった。この重要なポストを担うにあたり、彼は主君からの一層の信頼を勝ち取ることができた。しかし、皇帝の栄華は傾きだした。まるで運勢は、勝ち誇る英雄たちに月並みの不運の辛苦を与えるだけでは飽き足らないようであった。皇帝の失墜が世界中を驚かすに足るほど急速で、それは彼の栄達よりなお早かったが、没落の最中に昔からの忠実な部下たち、彼が何よりも愛し、彼の栄達と権勢を支援した者たちは、彼の側から引き離されていった。ベシエールも例外ではなかった。

5月1日、ルッツェンの戦いの前夜、この元帥はポセルナとリパッハ間の隘路を突き進んでいた。彼はいつも通り、狙撃歩兵を従えて、危険の真っ只中を突破しようとした。隘路の突破が成功した時、一つの弾丸が彼の胸を貫き、彼は息絶えて地面に横たえられた。彼の死骸は即座に白布に包まれ、その死は、翌日の戦勝がこの悲報をより受け止めやすくするまで、彼が長いこと指揮していた勇敢な部下たちの目から隠された。

ベシエールの最期

かくして、この優れた軍人にして良き人物は斃れた。彼の性質は、その他のナポレオンの将帥らと比して、言い表せないほど好ましいものだった。彼は略奪に手を染めず、死にあたり、彼の遺族を貧しい境遇に置いたのみならず、相当な負債を残していた。彼はご機嫌とりでもなく、彼は主君を非常に敬愛しており、甘言で欺こうとしなかった。彼の人道性、慈愛心以上に、彼の美徳を証明するものはなく、それはフランスの名が当然ながら忌まわしく記憶に残るスペインに置いても、彼が統治を任された幾つかの街の住民は自発的に集まりベシエールの魂のためにミサを捧げた。

オーストリア、プロイセン、ポーランドにて、彼は全力を傾けて戦争の惨禍の軽減に努めたので、偉大な人物としての記憶を後に留めた。のみならず、ロシアにおいてさえ彼の人道性は賞賛された。モスクワが炎上した時、家を失い凍えた大量の住民が、彼が居住している宮殿に避難を求めた。住民らが中に入ると、彼と従者たちは丁度食卓につくところだった。あまりに悲惨な状況に心打たれて、彼は彼の参謀らに「諸君、どこか他の場所で夕食をとることにしよう!」と告げると、即座に飢えて衰えた者たちを食卓に座らせた。マラヤスロヴェッツからの恐ろしい撤退の間、彼の人道性と勇気は絶えることなく発揮された。彼は兵士達からの信頼と愛情の対象だった。

ベシエールは息子を一人残した。彼はルイ18世によってフランス貴族に叙せられる。

ベシエールの胸像(ベルサイユ宮殿)

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