ニコラ・シャルル・ウディノは1767年4月2日、バル=シュル=オルマンに生まれた。他のほとんどの若者たちと同様に、彼は革命が生んだ新体制に最初は夢中になったが、それがすぐに過激へと転じたことには承服しかねた。 彼の町は略奪され、もし若いウディノらが武装して荒ぶる暴徒を追い払っていなかったなら焼き尽くされるところだった。 この武功に自信を持った彼は兵士になろうと決意した。 彼は軍務にありつくと、その勇気によって、その時期でさえ異例なスピードで兵士階級から急速に昇進を重ね、中将になった。ウディノは、オッシュ、ピシュグリュ、モロー、マッセナ、ボナパルトの指揮下で、ライン、スイス、イタリアの各方面で優れた働きをしたので、1804年に帝国元帥の称号が設立された際に、その中に彼が含まれなかったことに軍人らは疑問を呈した。 ただし彼には帝国伯爵に叙爵され、100万フランが与えられた。 ワグラムの戦いでの敢闘ぶりによって、彼はレッジョ公爵という一層高位の称号を手にした。 1809年に彼はとうとう元帥杖を手に入れ、ロシア遠征で第12軍団を指揮した。 その過程で彼は多くの重傷を負ったが、それにも関わらず危険で困難な撤退戦をやり遂げた。
パリに生還してしばらくの間、ウディノは戦傷のため安静を強いられた。 やがて身を起こせるようになるとすぐにナポレオンの衰退した運勢を支えるために、ドイツでの戦いに急行した。 彼はバウツェンの勝利で大いに名を挙げた。 しかし、グロスベーレンでベルナドットに敗北したことは、皇帝の激しい怒りを買い、彼はすぐにネイに取って代わられた。 この屈辱にもかかわらず、彼はネイの下で仕えることを拒否しなかった。 その後すぐにデネヴィッツの戦いで同じ有能な指揮官によって、この勇者の中の勇者と呼ばれたネイでさえも敗退を余儀なくされたのは、おそらくウディノの自尊心にはいくらかの慰めとなっただろう。
ナポレオンの独裁を長く嫌悪しており、皇帝の退位によって服従の義務から解放されたウディノは、ルイ18世に進んで奉仕を申し出ると、それによって彼は擲弾兵隊の上級大将の地位を与えられ、メスの軍政という重要な任務を任された。 ナポレオンが再びフランスに混乱を引き起こしに舞い戻った際、ウディノは立派にも引き続き王家に忠実であり続けた。 ウディノがナポレオンと一戦交えようとしようにも、彼の軍隊は公然と旧主の方につくと宣言した。
百日天下の間、彼はボナパルトの誘いすべてに断固と抵抗した。 決して宮廷に顔を出さず、田舎で時間を過ごしていた。 ブルボンの二度目の復位にあたり、彼の忠誠心はパリ国民衛兵の指揮権、聖ルイ騎士団及び聖霊騎士団の勲章、フランス貴族院の議席、そして閣僚の席によって報われた。
ウディノの最後の軍務は、アングレーム公の指揮下における1823年のスペイン侵攻だった。 そしてマドリードの知事であった間、立憲主義者への攻撃に躍起となっている専制政治の狂信者たち(主に僧侶に扇動されていた)を捕縛するという人道的な振る舞いをした。
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