6.モスクワ
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炎上するモスクワ
を眺めるナポレオン |
ナポレオン軍は2日の休止ののち、2師団に分かれモスクワを目指した。師団のひとつはロシア軍の側面を攻撃させるためのものだった。後退を続けるクトゥーゾフはあえてモスクワの前で会戦に臨む危険を冒さなかった。彼は首都モスクワをあえて捨てると決意する。ミュラは疲弊した騎兵隊と共にロシア軍に全力で追いつこうとした。前衛部隊を率いたセバスティアニは、モスクワで避難活動をしているロシア軍に追いつき、彼らが街を引き払うまでの7時間の休戦締結に同意した。その判断は、木造建築物の多いロシアの街中でフランス軍が市街戦を行えば、火事および必須となる宿営先と糧食の焼失が免れ得ない経験からくるものだった。日が暮れる頃、ナポレオンは現場に到着する。ロシア軍は引き払った後であり、モスクワ入城を開始したが、街の片隅で既に火事が発生していることが明らかになった。ナポレオンは西側にある郊外の家で一夜を過ごし、翌朝はクレムリンに乗り込んだ。軍隊は割り当てられた営舎に移ったが、その午後に大火災が発生し、2日間街を焼き続けたため、フランス軍は再び郊外へ追い出され、また物資を得る望みは潰えた。皇帝は最悪の混乱状態に置かれた。クトゥーゾフはモスクワの郊外を逍遥していた。彼の本軍はカルーガに配置され、フランス軍とヴィスワ河の補給基地をつなぐ連絡線を脅かして遮断しようとした。彼のいくつかの部隊は南西部に向かう。そうすることでクトゥーゾフはロシア帝国で最も肥沃な地域との連絡線を確かなものにした。彼のコサック兵はスモレンスクに攻め寄っていた。モスクワの南に位置するウェレーガはフランス軍の防衛拠点となっていたが、9月29日にクトゥーゾフによって急襲される。そのころ、フランス軍のマクドナル元帥の最左翼を援護しているサン=シール元帥にわずか17,000兵の手勢しか残されておらず、それを持ってウィトゲンシュタイン指揮下の40,000以上のロシア兵に対抗しているとのニュースが到着した。南方では、ロシアがオスマン帝国と和平を締結したことで、チチャーゴフ下のモルダヴィア・ロシア合同軍を国境から引き上げさせ、ナポレオンの連絡線を押さえに向かわせることが可能になった。チチャーゴフはヴォルィーニにいるオーストリア軍とザクセン軍に対応させるためいくらか兵力を残すと、残りを率いてベレジナ河に向けて進軍し、ともにナポレオンの連絡線を分断する目的で、トルマソフとブレスト付近で合流し、合わせて10万兵を構成する軍勢となろうとしていた。その一方で、この軍勢に対抗するシュワルツェンベルク指揮下の兵は3万にまで減少していた。
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モスクワ占領時の両軍の勢力図 |
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撤退を考案するナポレオン |
このように、フランス軍はおよそ900kmの辺長から成る正三角形に配置され、頂点のモスクワでは仏軍95,000兵が露軍12万兵に対抗し、ブレストでは仏軍30,000兵に対して露軍10万兵が、ドリッサでは仏軍17,000兵が露軍40,000兵と睨み合った。 一方で、スモレンスクに置かれたフランス軍の拠点はヴィクトル軍団の約30,000兵が防御した。 モスクワからニーメン河までは890kmの距離だった。 もはやフランス軍が助かる道は、撤退か講和しかなかった。ナポレオンの矜持は撤退を許さず、講和に望みをつなごうとしていた。10月4日、ナポレオンは、ローリストン将軍をロシア軍司令部に送り、交渉を持ちかけた。だが日ごとにフランス軍の窮状は悪化していく。備蓄は底をつき、略奪しようにも、コサックや農民の群れから襲われる危険に苛まれ続けた。アレクサンドルが夏に組織したコサックと民兵によって、クトゥーゾフの兵力があらゆる方面で補強された一方で、フランス軍は同じくらいの兵を失っていった(モスクワで、飢餓、暗殺、襲撃によっておよそ4万の兵が命を散らした)。ローリストンの帰還を待っている間、ミュラはクトゥーゾフから小競り合いを仕掛けられる。皇帝自身は全軍をあげてサンクトペテルブルクに攻勢をしかける方策を練り、そのためにヴィクトルとサン=シールを呼び戻した。ミュラが18日に攻撃され、手痛い目に会うまで(タルッティノの戦い)この計画は実行の俎上にあがっていた。予想外の攻撃を受けたミュラとセバスティアニに率いられたフランス軍は、大きな損害を出して後退する。物資の欠乏に迫られ、ナポレオンはようやく4週間前にすべきだった決断をした。10月19日、ナポレオンはモスクワ撤退を決意する。全フランス軍はロシア軍に応戦するため出撃したが、24日のマロヤロスラヴェッツの戦いで徹底的に痛めつけられる。
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マロヤロスラヴェッツの戦い |
7.モスクワからの撤退
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落伍し捕虜となるフランス兵 |
こうして、歴史に名を残す撤退が開始される。気候条件ではなく、フランス軍の行軍に規律が完全に欠如していたことが、その後に起こった大惨事の要因であったことは一般に見落とされている。実際のところ、その年最初の降雪日は通年より遅い10月27日であり、乾いた大気は心地よく、11月8日になるまで、夜の寒さは厳しくならなかった。 11月26日にベレジナ河に到着した時でさえ、寒さはそれほど深刻ではなかった。そのことは、ゆっくりとした河の流れがまだ凍結しきっておらず、そのためにエブル将軍の工兵隊がその水中を丸一日かけて難儀しながら架橋したという事実からもわかる。しかし、フランス軍はもはや完全に制御不可能で、集団パニックによって最も強い自律心を備えた人間でさえもタガが外れていた。河自体は橋なしで渡河が可能で、実際に騎兵は行き来していたにも関わらず、橋に殺到した逃亡兵らが何百人も踏みつけ合っているという有様だった。
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ヴィアジマの戦い |
実際の出来事に話を戻すと、クトゥーゾフは24日のマロヤロスラヴェッツでの成功を活用するのに出遅れ、全く見当違いの方向に追撃を始めた。しかし、ナポレオンの方も状況を把握するにあたり欺かれたか、もしくは情報不足だったのか、スモレンスクに至る街道を押さえていた自軍をも後退させてしまい、破滅の要因となった。11月2日、ヴィアジマに置かれたフランス軍の司令部にて、コサック兵からの襲撃を脅威に感じたナポレオンは軍隊に(エジプト遠征のように)方陣隊形で行軍するよう命令した。しかし、皇帝が先頭を行く親衛隊のみがこの命令に従っていた。あらゆる局面で騎兵の不足が足を引っ張る一方、ロシア軍はコサック兵によって波状攻撃を仕掛けてきた。それに加えて不毛の地では、あらゆる物資の欠乏によって既に兵の規律の維持は果てしなく困難になっていた。その中で更に増すロシア軍からの攻撃を受けて、何千もの兵士と馬が命を落としていった。
クトゥーゾフはやっとフランス軍に追いついていたが、フランス軍にとって運が良いことに、クトゥーゾフは接近戦を挑もうとせず、ただ側面に張り付いて、コサック兵で妨害するか脱落兵を襲撃するだけだった。こうして、今や5万兵もいない大陸軍の残骸は、9日にスモレンスクに到着し、14日まで休息を取ったが、生き残った兵士たちは休息も、食物も、衣類も望むように得られなかった。
その後、行軍は再開され、親衛隊が先陣となり、ネイが後衛を命じられた。 16日、クラスノイの近くで、ロシアの前衛部隊が隊列を遮ろうとした。ナポレオンは応戦するため全軍を停止させ、かつての活力を漲らせて攻撃し、道から敵を一掃させるのに成功したが、ネイと後衛部隊を置き去りにする犠牲を払った。 比類なき胆力と困苦を伴う一夜の行軍の果てにネイはロシア軍を引き離すことに成功したが、オルシャの本軍にたどり着いた時には、彼の6,000兵のうち残存していたのは800兵のみだった(11月21日)。
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殿軍を指揮するネイ |
8.ベレジナ
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架橋するフランス工兵隊 |
フランス軍はダヴーとネイ指揮下の2旅団を丸ごと失いながら、南北から攻撃を仕掛けてくるロシア軍の機先を制そうと急いだ。11月18日のクラスノエの戦いののち、理由は定かではないが、クトゥーゾフは追跡を止め、ナポレオンは運良くドヴィナ河沿いの無傷の自軍と合流でき、それによっていくらか騎兵の損失を賄うことができた。またナポレオンは、ヴィクトルあてに、ベレジナ河沿いのボリソフにて合流するよう命令を出した。寒さは今や過ぎ去り、雪解けによってこの地方は泥沼のようになっていた。南から進軍してきた露将チチャーゴフがボリソフに到着したという報が届く。ナポレオンは、ヴェセロヴォを渡河地点として選び、23日午前1時にウディノに命じて、そちらに向かって架橋させようとした。この命令の実行中、ウディノはボリソフ近くでロシア軍の前衛部隊と遭遇し、混乱させて後退させたが、そこにある既存の橋を彼らが破壊するのには間に合わなかった。この唐突な攻撃再開はチチャーゴフを混乱させ、本当のベレジナ渡河地点を見誤らせた。それによって、ヴィクトルは到着するまでの時間稼ぎができ、ウディノも上記の場所の近くにあるスタディエンカで架橋する余裕ができた。しかし、渡河地点が一箇所である方が多くの点で目的に適していた。したがって、ナポレオンはエブレ将軍下の架橋部隊をそちらに送ったが、彼らが到着した時には何も準備されておらず、多くの時間が失われた。一方、ヴィクトルは本当にそこが渡河地点か疑念を感じて、スタディエンカへ至る道を無防備にしており、露将ウィトゲンシュタインはその道を猛追した。
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ベレジナの戦い |
26日午後4時までには橋は完成し、渡河が開始されたが、徐々に近づいて来るロシア軍による抵抗は免れなかった。渡河は橋の崩落によって時々中断されたが、一晩中継続された。 27日の丸一日中、落伍兵らが渡り続ける一方で、規律を十分維持している者らが戦闘員として用いられ、彼らを防護していた。 28日の午前8時、ロシア軍のチチャーゴフとウィトゲンシュタインは河の両岸から攻撃しようと前進したが、ネイ、ウディノ、ヴィクトルの下に残っている数少ない部隊の素晴らしい犠牲によって食い止められ、午後1時頃には常備軍の最後の集団が橋を渡り切り、わずか数千兵の落伍者が河の対岸に取り残された。
その日にフランス兵が軍のどれ程を占めていたかは定かではない。 ウディノとヴィクトルの兵は比較的損耗されておらず、計2万兵ほどいたかと思われるが、ネイが指揮下において戦った兵の数は全軍見渡しても6,000兵を超えることはなかった。 殺された兵の数はさらに判明しないが、3日後に軍務を遂行可能と報告された兵の総数は8,800にしかならなかった。
9.終幕
しかし、ヴィリニュスへの道程は長く、日に日に増す寒気、身の毛もよだつほどの飢餓、規律の混乱により、苦痛と絶望は最高潮に達する。それゆえに、軍隊の撤退は実質的に蜘蛛の子散らす逃亡と成り果てた。もはや中隊レベルでさえも体をなしていなかった。誰もが助かることしか余念がなく、我先にと同僚や見知らぬ者らから衣類を剥ぎ取っていった。彼らはみな散り散りとなって、行く先々で疫病を撒き散らかした。12月5日にスマルホニに到着し、そこでこれ以上彼の手では何もできないことを知ったナポレオンはミュラに軍の残骸の指揮権を投げ渡すと、翌年に向けて新しい軍隊を編成するためにパリに向けて極秘に出発した。全速力で彼は移動し、ワルシャワ、ドレスデンを経由した312時間の旅の後、18日にテュイルリー宮殿に到着した。
皇帝が去った後、寒気は激しく増加し、気温は-5℃に下がった。12月8日にミュラはヴィリニュスに到着する。一方、ネイの約400兵とウレーデのバイエルン兵2,000は依然として後衛を務めていた。 ナポレオンが指示したヴィリニュスでの冬営を実行するのは不可能だったため、10日に撤退は再開され、12月19日にミュラと親衛隊400騎および馬を失った騎兵600がようやくケーニヒスベルグにたどり着いた。
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ヴィリニュスにたどり着いたフランス軍 |
他方フランス軍の最右翼ではシュヴァルツェンベルクと彼のオーストリア軍が自国を目指して移ろっており、そしてヨルク将軍のプロイセン軍はリガ付近でマクドナル元帥の指揮下にあったが、タラウゲにてロシア軍と交渉を持っており、そのためフランス軍の左翼の押さえは失われた。こうしてケーニヒスベルグも安全とは言えなくなり、ミュラはポズナンに後退すると、1月10日、そこにてウジェーヌ・ド・ボーアルネに指揮権を渡してパリに帰還した。
ロシア軍の追撃は事実上ニーメン河までで停止する。彼らの軍隊もひどい手傷を負っていたため、休息期間が絶対的に必要だった。
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