2021年4月3日土曜日

1814年4月3日 ナポレオン退位決議書


1814年3月30日、対仏連合国軍はパリを降伏させる。4月1日、護憲元老院はタレーランら5人からなる臨時政府の長を選出、3日にナポレオン退位決議を採択した。その決議書を翻訳してみた。

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護憲元老院は以下を鑑み、

・立憲君主制においては、君主は憲法または社会的契約に基づいてのみ存在する。
・ナポレオン・ボナパルトは、束の間に堅実で賢明な政治を行った為、国民に賢政を期待させる根拠を与えたが、その後、フランス国民との間に結ばれた契約を破った。特に、共和暦12年フロリアール28日憲法第53条に準拠して即位した際に行った誓いの明確な趣旨に反して、法律に基づかずに課徴金を引き上げ、税金を設定した。
・彼は、国民の権利に対するこのような攻撃は、彼が立法府を必要なく閉会させ、彼の称号と国民代表としての資格に対抗しようとした立法府の報告書を犯罪として弾圧したときにも行われた。
・彼は、宣戦布告は法律と同様に提案され、議論され、決定され、公布されなければならないと規定している共和暦8年フリメール22日の憲法制定法第50条に違反し、一連の戦争を遂行した。
・ 彼は、憲法に反して死刑を伴ういくつかの命令下しており、特に昨年3月5日の2つの命令は、彼の計り知れない野心のためだけに起こした戦争を国家的事業と見せかけようとした。
・彼は、国事犯刑務所に係る命令によって憲法に違反した。
・彼は、閣僚の責務を解体し、すべての権力を混乱させ、司法機関の独立性を破壊した。

また鑑み、
・国民の権利の一つとして確立され、聖別されている報道の自由は、常に警察の恣意的な検閲にさらされており、同時に彼は常に報道を利用して、フランスとヨーロッパを架空の事実、誤った教訓、専制政治に有利な教義、外国政府に対する暴挙で埋め尽くしてきた。
・議会で合意された法律や報告書は、出版に至って変更が加えられた。

また鑑み、
・ナポレオンは、その誓いに従ってフランス国民の利益、福祉、栄光を第一に考えて統治するのではなく、国益のために受け入れざるを得ず、フランスの名誉を損なわない条件での講和を拒否したことにより、祖国の不幸に拍車をかけた。
・彼に託された人と金のすべての手段を乱用したこと。
・負傷者を傷の手当てもせず、救援もせず、食糧も与えずに放置したこと。
・都市の破壊、国の人口減少、飢饉、伝染病などの結果をもたらしたさまざまな措置をとったこと。

また鑑み、
・これらの原因により、これらの原因により、共和暦12年フロリアール28日の元老院決議によって樹立された帝国政府は存在しなくなり、すべてのフランス人の明確な希望により、第一の目的は万民の平和の再確立であり、全ヨーロッパの同胞を抱き込んだあらゆる国家間の厳粛な和解の兆しとなりうる秩序が求められている。

よって、元老院は以下のように宣言し、決議する。

1.ナポレオン・ボナパルトは王位を没収され、彼の家系に確立された相続権は廃止される。
2.フランス国民と軍隊は、ナポレオン・ボナパルトへの忠誠の誓いから放免される。
3.この命令は、フランス臨時政府へ伝令文の形で伝達され、直ちにすべての省と軍隊に送られ、首都のすべての区域で直ちに宣言される。

2021年3月30日火曜日

1815年3月30日 リミニ宣言

 


1815年3月30日、ナポレオンによりナポリ国王とされていたジョアシャン・ミュラは、リミニ宣言を発した。オーストリアに宣戦布告したばかりのミュラは、この宣言でイタリア人に占領するオーストリアへの反乱を呼びかけ、イタリア独立の支持者であることをアピールし、ナポリ王座を堅持する為の味方を募ろうとした。

その宣言書を以下に訳してみた。(原文はイタリア語)


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1815年3月30日、ジョアッキーノ・ムラート(仏:ジョアシャン・ミュラ)によるイタリア人に向けた宣言


イタリア人よ!

諸君の崇高な宿命が成就する時が到来した。神意は諸君がついに独立した国民になるよう思し召す。アルプス山脈からシッラの海峡まで、ただ一つ『イタリアの独立』を求める叫び声が満ちている。しかるに、異国人はいかなる権限で、すべての人々の第一の権利であり、第一の利益である国家の独立を奪おうとしているのか?彼らはいかなる権限で諸君の最も美しい土地を支配しているのか?彼らはいかなる権限で諸君の富を奪い、諸君の母国ではない所へとそれを持ち去ろうとしているのか?彼らはいかなる正当な理由で諸君から子供たちを引き離し、従わせ、苦労を味あわせ、父の墓から遠く離れたところで死なせるのか。

自然が諸君のためにアルプスの断崖を高くしたのは無駄だったのか。イタリア人同士の言葉や習慣の違い、相互の根深い対立意識が一層乗り越えられない障壁となって諸君を取り囲んでいるのだろうか?いや、違う、あらゆる外国の支配をこの土地から一掃しなければならない!かつて世界の支配者であった諸君は、その狙われやすい繁栄の代償として、20世紀にわたる圧迫と殺戮の対象となってきた。今日、もはや支配者が過去のものとなる栄光が諸君を照らしている。すべての国は、自然がもたらす境界の中に自らを収めなければならない。足を踏み入れることのできない海や山が、諸君の国境となる。それを越えようとは決して思わず、だがもし国境を侵害した異国人が迅速に自国に帰らないのであれば、彼らを拒絶せねばならない。ナポリ王国のイタリア人8万は、国王の指揮のもと行進し、イタリアの解放が完遂するまで息をつかぬと誓った。彼らが誓いを守ることは、すでに証明されている。他国のイタリア人よ、彼らの大志に倣うのだ。諸君の中で軍役に就いたことのある者は再び武器を手に取り、経験のない若者にその使い方を教授せよ。

誠意ある人々よこの崇高な奮闘のため立ち上がれ。自由を求める声を本当のイタリア人の心に伝えよう。すなわち、すべて国民の熱情を駆り立てるのだ。まさにイタリアが自由を獲得するか、それとも屈辱的に膝を曲げて今後数世紀にわたって隷属するかを決定する時が来ている。あらゆる国の啓蒙された人々、自由な政治体制を持つ国民すべて、その人格の偉大さにより国家を統治する者すべてが、諸君の試みを歓喜し、その勝利に拍手を送るであろう。立憲政治の模範であるイギリスが、国家の独立のために戦い、その目的の為に金銭を出し惜しみをしない国民に拍手を送らないことがあろうか。

イタリア人よ、諸君は今になっての我々の到来を驚いたことだろう。おそらく諸君の中には独立を求める声が周囲でわき上がっているのに行動を取ってなかった者いるだろう。その中には我々を無謀と非難した者もいるかも知れない。しかし、これまで機が熟しておらず、私でさえも諸君の敵の背信を知覚できていなかった。また、諸君のかつての支配者が再度やってきた際の空約束を、自ら反証する手間を要したのである。

運命が決する時が来た! ミラノ、ボローニャ、トリノ、ヴェネツィア、ブレシア、モデナ、レッジョ、その他多くの輝かしい、そして虐げられた地域にいる善良で不幸なイタリア人の皆に訴える。どれだけ多くの勇敢な戦士や高潔な愛国者が祖国から離別させられたことか!どれだけ多くの人が牢獄で呻吟していることか!どれだけ多くの犠牲、収奪、前代未聞の屈辱を味わったことか。イタリア人よ、諸君の勇気が独立を保証したように、法の保護、国民統合、民主的政府、真なる国民の代表そして諸君にふさわしい何世紀に渡って価値のある憲法が、諸君の自由と私有財産を保証してくれるだろう。

私はすべての善なる人々に戦うよう求める。私はまた、今ある幸福なイタリア、独立したイタリアを統治するための憲法と法律を作成し施行することができる、国益を真摯に考慮できる人々を求めている。

1815年3月30日、リミニにて。ジョアッキーノ・ナポレオーネ。

2020年7月14日火曜日

ラ・ファイエットとワシントンとバスティーユの鍵

本日7月14日は「フランス革命記念日」で、これは1789年のバスティーユ襲撃の日に由来するということで、それにちなんだ小話を。



バスティーユが陥落した後、32歳のラ・ファイエットはフランス全土の秩序を守るために結成された国民衛生の司令官に任じられた。1789年7月14日、王室の専制政治の象徴であったバスティーユ牢獄が暴動を起こした市民によって襲撃された直後に、その鍵がラファイエットに引き渡された。この鍵は錬鉄製で、重さはだいたい540gだった。1790年3月、革命の行く末を気楽に構えていたラ・ファイエットは、思いつきでバスティーユの鍵をアメリカにいるジョージ・ワシントンに記念品として送ろうとした。



ラ・ファイエットはまず、トーマス・ペインに鍵を託し、そこから色んな人の手を介して最終的に1790年の夏の終わり頃にワシントンに届いた。ワシントンは、この鍵をニューヨークの大統領邸に飾り、その後1790年秋にフィラデルフィアに政権が移転した後も、この鍵を目立つところに展示した。1797年、ワシントンの大統領退任に伴い、鍵は彼の自邸のマウント・バーノンに運んで展示した。1799年にワシントンが死去した後も、家族は鍵をそのままにしていた。1824年、ラ・ファイエットが息子と一緒にアメリカを再訪した際に、マウント・バーノンでこの鍵と再会する。この再会はラ・ファイエットにバスティーユ陥落を皮切り勃発したフランス革命のその後顛末と、自身の運命の変遷を思い起こさせたという。

マウント・バーノンのワシントン邸は、現在はマウント・バーノン婦人協会による信託で所有されており、見学者は邸内の中央ホールにてバスティーユの鍵を見ることができる。
また、バスティーユの牢獄自体が、革命後の1806年までに解体され、残存してないので、 この鍵は牢獄の存在を後に伝えるわずかな遺物となっている。


バスティーユの鍵の動画


2020年6月15日月曜日

プロイセン 軍人(11)アウグスト・フォン・グナイゼナウ( 1760-1831年)



グナイゼナウ(AUGUST WILHELM ANTON GNEISENAU)は、1760年にトルガウ近郊のシルダウで生まれ、同地で貧しく育ち、その後、ヴュルツブルクとエアフルトで育った。1777年にエアフルトの大学に入学したが、2年後にその街に駐屯していたオーストリア軍の連隊に入隊した。1782年、オーストリアにかつてあった一族の地所の名前を取ってグナイゼナウを名前に付け加え、バイルート=アンスパッハ辺境伯の部隊に将校として入隊した。辺境伯のイギリスにある傭兵連隊の一員として活躍し、アメリカ独立戦争で貴重な経験を積んだ後、1786年に帰国してプロイセン軍に入隊した。フリードリヒ大王は彼に歩兵少尉の地位を与えた。1790年にシュタプス=カピターンとなり、1793年から1794年にかけてポーランドに従軍し、その後、ヤウアーでの10年間の平穏な駐屯生活の中で、幅広い軍事学を学ぶことができた。1796年にカロリン・フォン・コットヴィッツと結婚。1806年にはホーエンローエの参謀の一人となり、イエナの戦いで戦い、その少し後にはレストックの下でリトアニア戦役に参加した臨時歩兵旅団を指揮した。1807年初頭、グナイゼナウ少佐は司令官としてコルベルクに派遣されたが、コルベルクは小規模で防御が不十分であったが、ティルジット和平まで持ちこたえることに成功した。この指揮官は「プール・ル・メリット勲章」を受け、中佐に昇進した。こうしてより広範囲の権限を得るようになった。技師長として、また軍再編成委員会のメンバーとして、シャルンホルストとともにプロイセン軍の再建に大きな役割を果たした。1809年には大佐に就任したが、その振る舞いが目立ったためすぐにフランス当局から疑われ、首相シュタインの没落に続いて、グナイゼナウも引退を余儀なくされた。しかし、ロシア、スウェーデン、イギリスを訪問した後、ベルリンに戻り、愛国者の指導者としての地位を回復した。解放戦争が勃発すると、グナイゼナウ少将はブリュッヒャーの副官となった。このようにして、この二人のコンビ関係が始まったのである。この関係は、将軍と参謀長との調和のとれた協力関係を示す最良の例として、軍事史を彩ってきた。グナイゼナウはブリュッヒャーとともに1814年のフランス戦役に貢献した。彼の軍事的特性はブリュッヒャーのものと全く同じであり、調和がとれた指揮官の下で、プロイセン軍の新参兵らはしばしば敗北を喫したものの、決して落胆することなく、侵攻を続けた。ナポレオンの敗北の直接的な要因となったパリ進軍の計画立案は、とりわけグナイゼナウ参謀総長の働きによるものが大きい。1814年には、その功績を称えてヨルク、クライスト、ビューローとともに、ブリュッヒャーがヴァールシュタット公となったのと同時に彼も伯爵に任命され、年金も与えられた。1815年の百日天下では再びプロイセン軍の参謀長となったグナイゼナウは、ワーテルローの戦いで目立った活躍をした。ヨルクやクライストなどのベテラン将官は、必要に応じて若い参謀長グナイゼナウが気兼ねなく指揮を執ることができるよう一歩引いており、リニーの戦いで老ブリュッヒャーが負傷したときには、グナイゼナウがすぐにプロイセン軍の指揮権を掌握した。その後グナイゼナウが軍事的にどのような役割を果たしたのかは、長年の研究が集めた証拠に照らしても、多くの議論がなされている。グナイゼナウは、リニーでプロイセン軍を窮地に追い込んだイギリス軍司令官のウェリントンに深い不信感を抱いていたことが知られており、勝利の瞬間までライン川に後退すべきではないかと深刻な疑念を抱いていた。しかし、ブリュッヒャーはすぐに負傷から回復し、主計総監のグロルマンとともに、グナイゼナウを上手くなだめた。この時の二人のやり取りは、イギリス軍のハーディング准将の報告書が明らかにしている。ワーブルに居たハーディング准将の部屋にブリュッヒャーが入って「グナイゼナウが譲歩したので、すぐにおたくの司令官の元に向かうからな」と言った。ワーテルローの戦場では、グナイゼナウはすぐに勝機を感知し、歴史上でも類を見ないほどの猛烈な勢いで追撃を続けた。その報酬として彼に与えられたのは、更なる昇進と、フランス軍の手に落ちナポレオンの馬車の荷となっていた「黒鷲章」であった。1816年には第8プロシア軍団の指揮官に任命されたが、すぐに体調不良と政治的理由で退役した。2年間はシレジアのエルドマンスドルフに隠居していたが、1818年にはカルクロイトの後を継いでベルリンの総督に就任し、評議会の一員となった。1825年には陸軍元帥になった。1831年には、クラウゼヴィッツを参謀長とし、ポーランド辺境監視軍の指揮官の任についた。1831年8月24日、ポーゼンでコレラに倒れて死亡したが、その後すぐにクラウゼヴィッツも11月に同じ病気にかかった。

兵士としてのグナイゼナウは、フレデリック以来のプロイセンの偉大な将軍であり、その気高い性格と高潔な生活態度は、上官や部下だけでなく、プロイセン国民全体の愛情と尊敬を集めた。1855 年には彫刻家ラウヒによる像がベルリンに建立され、1807 年の包囲戦を記念して 1889 年にはコルベルク擲弾兵隊がグナイゼナウの名を授けられた。1870年の普仏戦争では彼の息子の一人が第8軍団の旅団を率いた。

=参考文献=
1911 Encyclopædia Britannica, Volume 12

2020年5月20日水曜日

プロイセン 軍人(10)ヨハン・アドルフ・ティールマン(1765-1824)

ヨハン・アドルフ・ティールマン(Johann Adolf Thielmann )は、ザクセン王国の首都ドレスデン生まれのプロイセン軍人である。1782年にザクセン連隊に入隊し、ライン方面の戦いで活躍し、1806年のイエナの戦いではプロイセン側についた。その後、ザクセンからナポレオン1世の大使として派遣され、ナポレオン1世の熱烈なファンとなり、フランコ・サクソン同盟の実現に尽力した。1807年にはフランス軍に少佐として仕え、同年にはフリードランドで戦い、少将としてザクセンでオーストリア軍と戦った。1812年のロシア遠征では騎兵旅団を指揮し、ボロディノの戦いでの並外れた勇敢さが評価されて男爵に任命された。1813年初頭にトルガウの司令官だった際、対仏連合側と連絡を持ち、ザクセン王からフランスに町を明け渡すよう命じられたとき、司令官を辞任して対仏連合側についた。彼は1814年のフランス侵攻に参加したサクソン軍団の指揮を任された。続いてプロイセン軍に入隊(1815年)し、リニーとヴァーブルの戦いで第三軍団を率い、ワーテルローの勝利に大きく貢献した。

=参考文献=
The New International Encyclopædia(1905)

2020年5月19日火曜日

プロイセン軍人(9)フリードリヒ・ルートヴィヒ、ホーエンローエ=インゲルフィンゲン侯 (1746–1818)


ホーエンローエ侯(Friedrich Ludwig Fürst zu Hohenlohe-Ingelfingen) は1746年に生まれ、1806年のプロイセン戦役において、プロイセン軍の司令官としてナポレオン率いるフランス軍に対抗したことで知られる。 1792年の対仏戦争では師団を指揮し、1793年にはオッペンハイム、ピルマーゼンツ、ホルンバッハの戦いで優秀な成績を収めた。1794年にはカイザースラウテルンで勝利を収め、エムズ川中立線の指揮を執り、1804年にはフランケン公国の総督、ブレスラウの総司令官となった。1805年にプロイセン軍がフランケン地方に接近すると、サーレとトゥリンジアの森の間で軍団を指揮し、1806年の戦争では、ルイ・フェルディナンド王子の指揮下にあった先衛軍を率いてサーフェルトで敗北した。イエナの戦いでフランス軍に負けた後、彼は退却を指揮し、マグデブルクで彼の下に集結したプロイセンの大軍の残党をオーデル川に導いた。しかし、ブリュッヒャー将軍の陣地から遠く離れていたため、両軍は合流できなかった。騎馬隊もなく、歩兵も疲労困憊していたため、1806年10月28日、プレンツラウで17,000人の兵力で降伏することを決意した。 その後1818年2月に死去した。

2020年5月18日月曜日

プロイセン軍人(8)クライスト・フォン・ノレンドルフ(1762 – 1823)


フリードリヒ・エミール・フェルディナンド・ハインリッヒ・グラフ・クライスト・フォン・ノレンドルフ(Friedrich Emil Ferdinand Heinrich Graf Kleist von Nollendorf )は、1762年にベルリンで生まれ、1778年の戦いに従軍し、その勇気と軍事的才能によって出世し、1803年にはプロイセン国王への報告役を務める副将に任命された。シルの蜂起の後、ベルリンの司令官に任命されたが、これは当時は才能と技術が必要なポストと見なされていた。1812年のロシア遠征では、クライストはナポレオンの大陸軍の予備軍であるプロイセンの軍団の一つ指揮した。1813年5月20日のバウツェンの戦いでは傑出した活躍を見せ、その後の休戦協定を締結した全権交渉者の一人となった。ドレスデンの戦い(8月26日)でナポレオンに負けて、対仏連合国軍がドレスデンからボヘミアへの撤退を余儀なくされると、クライストは撤退に従ったが、フランス軍のヴァンダム将軍率いる4万の兵力にクルムで追いつかれた。クライストは軍を降伏させるか、生死を賭けた戦いをするしかなかった。彼は大胆な策を取ることにして、山からヴァンダムの背面に身を投じ(8月30日)、ノレンドルフの村で勝利を収めた。彼の成功により、ナポレオンに押されていた連合国軍を救うことができた。その後、クライストはノレンドルフの名で知られるようになった。1814年2月14日、フランスのジョインヴィリエで勝利を収めた。1814年2月14日、フランスのジョインヴィリエで勝利を収め、3月29日のクレーでの交戦では、旅団を率いて自ら直接攻撃を行った。1821年に死去。

The British Cyclopedia of Biography: Containing the Lives of Distinguished Men of All Ages and Countries, with Portraits, Residences, Autographs, and Monuments, 第 2 巻